【ホラー/怖い話】鼻(前編)

幾億にも刻まれた命の螺旋が奇跡的に交わることを愛だとか恋だとか言うんだったら僕らのそれはまさしく奇跡というのにふさわしいものだったのだろう。
そう。まさしく正真正銘愛し合っていた時期もあったのだ。

だというのにこの状況はなんだ。

掌が熱い。
思い切り顔を張られた僕の妻は私が想像したよりもずっと華奢であった。
大きく椛を咲かせ、糸を切られたかのようにその場にへたり込んでしまった。
みるみる間に涙の礫がつながっては頬を伝い落ちていく。

「すまない」
私はあれほど激怒していたのに怒気が急速にしぼんでいき、代わりにとんでもないことをしてしまったという罪悪感が僕の胸を引き裂くまでに膨れあがったのを感じた。
妻を殴ったのは初めてであった。女を殴ったのは初めてだった。
口をついて出てきた言葉は謝罪であったがなんら意味のないものであった。
心からの謝罪ではなく脊髄からの自己保身のための一言だった。
思考が停止していた。考えない必要があった。
もしほんの少しでも考えてしまえば、罪悪感でまともに生きていられなくなるのは感覚的に分かった。

売り言葉に買い言葉とはよく言ったものである。言葉を端折ってしまう僕と、喧嘩腰でしか言葉をかえすことのできない妻。いつの間に二人はこんなに不毛な会話しかできなくなってしまったのか。お互いに思いやろうという気持ちも、歩み寄ろうと努力するだけの心の余裕ももはやない。最近はもう中途半端なきもちから開放されたいと願う気持ちばかりだ。

「すまない」
ほろほろと雫を垂らす妻に頭を下げる。この六年でついぞやったことのない行動だった。
妻はそれを聞くと意識のタガが外れて火がついたように泣き出した。
それと呼応するかのように、奥の寝室でもよく似た鳴き声が聞こえてきた。

(頼む。やめてくれよ。テゴシ)
赤ん坊にも妻にも心の中で叫んだ。
どちらも泣き止む気配はない。
もうどうしようもなくなってしまった。頭が弾けてどうにかなってしまいそうだった。
僕も、思い切り怒鳴り散らして逃げてしまいたかった。
なんで、こんなことになってしまったのか。テゴシだ。
彼女の怨念がすべてを狂わした。

僕はそのまま隣の寝室へと重たい足を引きずって移った。
僕がなんとかしなければいけない。
簡素な寝室には最低限寝るのに必要な道具しか置かれていないがその中でも大きめのベビーベットは人の目を引いた。
ヒノキ材で作られたそれは異質で近寄りがたい空気を発していた。その原因はその質素な寝室のなかでこれだけが飛び抜けて高く、その分厳選された素材で作られた職人の一品だから。妻が自分の子どもを守るものだからといって、膨らみかけのお腹で何時間も練り歩いて、最後の最後個人経営の店で購入したものだった。
泣き叫ぶ声はやまない。
頭痛がそれによって果てしなく苛む重みのある痛みに変わっていった。

ーそもそもはお前が居なければ
僕は、ベビーベットの中身の肉塊に向けて目をやった。
猿のような顔をクシャクシャに歪ませたそれはもはや人というよりもどこか遠い星のエイリアンのように思えた。とてもではないが自分の娘だと信じたくは無かった。
子どもが生まれる前にはきっとかわいい娘になるだろうと予想していたがそれは大きな間違いだった。到底ではないがこの娘を愛することなどぼくには出来ないだろう。今もこれからも。
正確には僕は娘が憎いわけではない。もっともこの子以外であったのなら僕は惜しみのない愛を注いだだろうし、家族間も今よりもずっとずっとうまくいっていただろう。

なぜこんなにも僕が娘を嫌いなのか。
理由は『鼻』だ。
鼻がテゴシにそっくりなのだ。
そっくりだというほどではない、生き写しだと言ってもいい。
テゴシは僕の高校時代のクラスメートであり、僕の心の奥に閉まって二度と取り出したくない場所にいる人物の一人でもある。

彼女は僕のストーカーだった。
そしてぼくが原因で焼身自殺した。
そして、僕の娘のマナと瓜二つである。
彼女が娘に取り憑いたのだ。

△△△   ▲▼   ▽▽▽

僕の妻、タカタニアヤノとあったのはー当時は結婚前だから旧姓だ。高校生のときだった。
僕の母校である田熊高校に入学したてのときのこと。
その他大勢の人間が経験する通過儀礼に漏れず、新たに放り込まれがちがちに緊張していた。
新たな環境。新たな自由。そしてそれらと代償に課される責任の二文字。
なにもかもが新鮮であったし期待も大きかった。ただそれ以上に自分はうまく馴染めるのだろうかという背を焼くような不安が僕を臆病にさせていた。

僕は少しでも落ち着こうと窓から見える渡良瀬川ー田熊高校の側を流れている川に目をやった。
川の岸の、梢あざやかな長い並樹みち、水際には、高い藺の間に花が咲き、古ぼけた舟が、たったひとりの老人を積んでしずかにすべって行く。変化に乏しく退屈であっても、この胸の不安をごまかすためであるのなら何でも良かった。
昔、草野球をした後によくあそこで寝そべったものだった。川の土手の、したたるような青草のしげみに身をうずめて浮び来り、ただながめる。すると、かぐわしい夏花の匂いと、爽やかな水の香とが、混り合って、漂って来るのだった。

不幸なことに、僕の知り合いは同じクラスに居なかった。
同じ中学校から同じ高校に進んだ同士は結構な数いたはずだったのだが不幸にも僕だけがスポーツ特待で進学していたためわけの分からないクラスに飛ばされていた。

ーあーあついてねぇな
クラス表が貼りだされたとき、自分ひとりだけがなんの繋がりもない空間に放り込まれていると知って降って湧いた不幸を心の中で激しくなじったのを覚えている。まぁその日の内に地球一周分ひっくり返ってしまうほどに激変するのだが。

川面をながめていた僕だが、急に陰キャラ臭いと恥ずかしく思って視線をクラスにもどした。
こうして見てみると、中学の時とはほとんど違いがないということがわかる。
視界の大半を覆うのは馬鹿でかい黒板と、入学式に向けて切り揃えられた黒々の頭たち。
ちがう点をあげるのならあのやる気のない4つの扇風機がクーラーに変わっていたのと、便所がやたらめったらに綺麗で感動したこと、その2つだけだった。

ーさっさと授業始まんねぇかな

クラスの中にはすでに幾つかのグループが出来始めている。
知らず知らずのうちに貧乏揺すりが始まっていた。口の中で粘っこいものが出てきて思わず上唇を舌で舐めた。緊張しているときのクセだった、いつものことだった。

上手くなじめないのでは無いだろうかという心配が確信にかわりつつあった。
僕はいまいち感情を表に出したり、他人に対して心を開いたりすることが上手な人間では無かった。他人との距離感を取る方法がわからなかった。
だから自分から話しかけることなど到底むりだったのだ。
腹の奥底から嫌な空気がせり出してきてため息を一つ。頭のなかでいろいろなことがぐるぐると回り始めた。

その時だった。
「どこ中?」
突然声をかけられたので頭が沸騰してしまって回らなかった。
だから「え?」とわざと聞こえないふりをした。
相手はまずいことをしたという顔をした。
僕は僕で嫌われることをしてしまったという自己嫌悪の念に囚われた。
でも僕とは違って気持ちや頭の切り替えがすぐにできる人のようだった。
「どこの中学校出身?」
ともういちど優しく話しかけてくれた。

それが思い返してみれば僕の妻との最初の出会いだった。
妻は今でも美しいが当時は独特な青々しさがあって、どこか熟れる前の鬼灯に似た危うさも感じさせるところがあった。
「城南中学校だよ」
声が震えないように精一杯加減したつもりだったがそれを悟られなかったかどうかは怪しかった。確かめたかったが顔をみたら何か言われるのではないかと目をそむけ続けた。
「え?嘘?私も城南中だよ」
僕は思わず彼女の顔をまじまじと見つめた。
鋭く胸を指す痛みがあった。肉体的な痛みではなくどちらかと言うと神経がふるえて弾ける精神的なものによる痛みだった。棟の動悸が彼女に聞こえはしないだろうかとまるで見当はずれな考えも浮かんできた。

僕は若すぎるせいで痛みに正しい名前をつけることが出来なかった。
だからそれがいわゆる一目惚れという感情だと気がつくまでに随分と時間がかかった。
なにがそんなにも僕の感情を揺さぶったのか分からない。
あえて言うのなら『鼻』だ。
顔の多くを占める肉片が、その美しく天をついた一筋の鼻梁が僕を魅了して止まなかったのだ。

「え?なんかまずいこといった?」
「いや……」
なんとも言えない気まずい空気が二人の間に流れてきた。

△△△   ▲▼   ▽▽▽

おそるおそる忍び足でリビングをのぞくと妻はもう居なかった。
代わりに、机の上に銀の鈍い光をあげる鍵がおかれている。
妻は実家に帰ったようだった。
結婚生活での教訓をまた一つ得た。独り身に団地の1DKは広すぎる。
がらんどうになってしまったいつもの日常はまるで現実感がなくて不気味さを感じた。
あまりに静かすぎて、耳の奥に妙な高音が聞こえてきた。
耐えきれずにテレビをつける。
チャンネルを回してみたが休日の他愛のないバラエティはまるで興味のないものでしか無かった。あきらめて、番組を固定した。通販番組だったが、他人の笑い声が聞こえてこないだけ他よりもずっとましだった。
「お値段なんと3000円」
「3000円ねぇ」
たかだか電気シェーバーに3000円も払う必要が分からないし、そこまでして高性能なものを買う神経もわからない。
記憶の糸がたぐられる。

そもそも妻を殴ったのにもきちんとした理由があった。
夫婦生活を始めてみてはじめて分かることがいろいろある。例えば、夜電気を消して寝るか、便器のフタを開けっ放しにするかどうか、シャンプーは共用するかどうか、上げていけばきりがない。
二人の他人が、生まれ育った環境も違う二人がうまやっていくためにはそれなりの我慢が必要だった。日々の生活にて少しづつ溜まっていく鬱屈にどうしようもなくやるせなく感じる日も一度や二度どの話では無かった。
こまごました粗相程度ならいくらでも耐えうることが出来た。紛れもなく妻を心の底から愛していたから自分自身を偽ることなど容易にできた。
しかし僕の堪忍袋尾を断ち切ったのはそんな生易しい問題ではなかった。
決定的な決裂を産んだのは金遣いの問題だった。
妻には金銭感覚というものが皆無であった。
スーパーでまとめて買うということがまるで出来ない、足りないものはコンビニで平気な顔をして買ってしまう、衝動買いや無駄遣いが常人のそれの比ではない。
ちょっとした小間使いがかさむ、かさむ。
それが月5.6万の問題であったのなら眉根に皺を寄せる程度ですましただろう。
が、現実には妻はなんと一桁も上の金額をつかいこんでいた。
おまけにそれだけの金をどこから絞り出したのかというと借金だ。
あちこちのクレジットカード会社の請求がポストに放り込まれていたのを見た時の僕の気持ちが想像できるだろうか。少なくとも妻には不可能であったようだ。
挙句の果てに旅行に行きたいなどといい始めた。耐えきれなくなった僕はいままでのことすべてをぶちまけるように、僕は妻を詰問した。
すると彼女はこういったのだ。
「それくらいすぐ稼げるでしょ?」
どす黒い塊が喉奥からせり出してくるのを感じた。
気が付くと僕は妻を殴りつけていた。

怒った原因は2つ。ひとつ目は悲しかったからだ。学生時代の妻は平気な子をして悪どい事をはたらくような人柄ではなく、その美点が容姿などよりも余程好きなところであったというのに。結婚生活というのはここまで人を歪ませてしまうものなのか。むざむざその事実を目の前につきつけられた気がして強烈な嫌悪感が生じた。
しかしそれよりも大きかったのは彼女という人間の中にたしかな人格を見出したことを恐れたからだった。今までアヤノが面と向かって自分に対して厳しい口調で話かけてくることなどまずを持って無かった。だからこそ僕は恐れた。妻が僕の手の中から離れていってしまうような気がして。
全くもってひどいとしか言いようのない話だが僕は間違いなくあの瞬間、力によって彼女を屈服させようとしたのである。長年の結婚生活において変質してしまったのはなにも妻だけではないようで、僕自身もかなり変わってしまったようだった。

「くぅぅぅうう」
子犬が吠えたような音が響いた。
小腹をさすってきまりの悪い顔を浮かべた。
とにもかくにも腹がへった状態ではまともに動くこともかなわない。
重い腰をあげて僕は立ち上がった。出かけよう。うだうだ家の中で考えてみたところでいいことなど一つたりともないのは目に見えている。
少しよれてしまったシャツを1枚引っ掴んで袖をとおした。
もし妻がいたのだとすればしっかりアイロンがかけられていたに違いはないのだが。

ついてないことは重なる。
ドアをあけるとそこには雨景色が広がっていた。
ーついてねぇな
飲み会のおりに車を会社においてきてしまっている。
軽く舌打ちしたくなる気持ちをおさえながら今後のことを考えた。
歩いて行くには少し距離があった。
自転車を使おう。そう考えついたはいいが今度は自転車のキーがどこにあるのか分からないことに気がついた。
口を開きかけてやめた。そういえば彼女はいないのであった。
ため息を一つ。
ー仕方がない。
歩いて行く事にした。どのみち荷物を満載した自転車を傘さし運転で制御しきるだけの自信はぼくにはない。
ローファーを履いて最初の一歩目を繰り出す。
雨に濡れたアスファルトは足音を吸い込んだ。
そのまま傘をさすと、小雨の音がやけに弾んで聞こえてくる。
落ち込んだ気持ちがすこし晴れたような気がした。
昔から雨が好きだった。理由は単純で、さした雨傘のおかげで人と目が合わないから。
必要以上に気を使う必要は何一つない。
ただもくもくと足を進めていればそれで事足りるのがすきだった。

新興住宅街であるこの町はどこに目を向けてみたところで、同じような景色しか広がっていない。まるでクッキーの型抜きで開けてつくったような印象すら受ける。
それでもやはり家々ごとに個性がある。
綺麗にかたづけてあったり、そうでなかったり、豪勢な外車が止まっていたと思っていたら、ボロボロの中古車がとまっていたり。
普段は車で一気に突っきてしまうから細かいところまで目を配ることがなかったが、改めて町並みを見回してみると面白いものだ。
「あら、おひさしぶり」
「はい?」
「あら?覚えてませんか?」
傘を少しあげて相手を確認した。
品の良さそうな丸顔に、優しそうな目尻の皺、そして全てのパーツを決定づけるかのようなやや鋭角に上を向いた鼻。好きな鼻だ。
初老に差し掛かったその男性は間違いなく自宅のアパートの隣に住む人に違いなかった。
「ああ。おとなりの……オクヤマさんでしたよね」
「ええ。合ってます」
花の咲いたような美しい笑顔をする人だったのでその顔をみるだけで僕はなんだか嬉しい気持ちになってしまった。
「それで、なんのようですか?」
そこで急に言葉に詰まった。言いづらいことをいうときの人物特有の上目遣いでこちらを見てくる。
「あの、昨日は大丈夫でしたか?」
そこまで騒いだ記憶はないのだが安アパートの一室の壁などあてにしてはならないということだろう。
「ええ。すいませんでしたね」
たいそう無様な顔をしているのだろう。気の毒なくらい大げさな身振りでフォローをしてくれた。僕はひきっつた顔をむりやり笑顔に作り変えると彼に
「いえ。大丈夫ですよ」
と精一杯の強がりを言ってみせた。
「すいません。ご心配をおかけして」
「いやいや。娘さんが随分夜泣きがひどいみたいで」
娘。聴きたくない響だ。
娘が生まれてからというものの妻にも奇行が目立つようになった。
上手くはいえないが、時折テゴシが乗り移ったように感じることがあった。
粘着質な言動、強欲な振る舞い。私が嫌って止まなかったすべてが目の前にいた。
「うるさかったですか?」
「いえ。ただ、奥さんが随分お疲れのようでしたから」
「え?」
言葉に詰まった。
妻が疲れているのをなぜお前が知っている?

妻の実家は他県にある。
今、この場所この町に妻がいるはずがないのだ。
いやな汗がたらりと背筋を伝い落ちる。
何かオクヤマは話し続けていたようだがそれらすべてが薄い1枚のガラス板をはさんだかのように遠くに感じられた。
この男と、妻が会うのは物理的にも距離的にも不可能なはず。
仮に居たとして、一体どこに住み着いているというのだ。

△【単発物ホラー】鼻(前編)

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