【ホラー/怖い話】伽藍洞の重瞳【秋時雨紅葉】

坩堝(るつぼ)の塊の中に溺れる私は、どうしようもなく孤独だった。

すがるあても当になく、私が殺してしまった。
転々と大陸を超え、私は私の存在を求めてゆく。

自分の記憶はまだ思い出せない。記憶があったのかすらわかってはいないのだ。
名前を求めて旅をしていた。それが私が最初にするべきことだと思ったからだ。けれど、まだ見つかっていない。

孤独だった。どこに行っても、どこかで「化け物」と侮蔑(ぶべつ)される日々を私は過ごしていた。

私はまだ探している。私の名前を探している――――。

「ねぇ、ケルク。こないだ私が都市に行くことあったじゃない? あの時、面白い話を聞いたのよ」

また始まった、と少年ケルクは夕暮れ時に怖い話をしようとする姉にため息をつく。

「カーミラ姉さん……また怖い話でしょ。次は何なのさ。こないだは、竜の睾丸にはゴブリンの卵が入ってるっていってたような……まず竜なんて見たこともないし、竜に睾丸ついてるとこみたことないよ」
「ケルクったら私を馬鹿にしてるでしょ?」
「竜に睾丸って話を持ってくる人なんて姉さんぐらいだから馬鹿にもするさ」

ケルクとカーミラは向かい合いながら、長机に肘をおいて話している。
二人暮らしの生活に慣れた二人は、時々姉のカーミラが持ち帰ってくる怖い話をケルクが聞くようになっていた。

「竜に睾丸の話は置いておいて、私が今日話したいのは腐乱した胎盤(たいばん)についてなのよ」
「腐乱した胎盤?」

カーミラは意気揚々と話を進めていく。

「ええ。都心部ではやけに注目されてる話題だったんだけど、さすがに辺境地とも呼ばれてるここでは聞いたことないでしょ?」
「まぁ、そうだね。ヘロアドじゃ聞いたことないし、僕はここ以外の大陸に出かけることもないし……」
「そうでしょ? だからこそ、お姉ちゃんがいいお話を持って帰ってあげてるのよ」

カーミラ自身は、弟に面白い話をしていると感じてはいるが、当のケルクはちっとも面白くはないし、既に十八歳という歳を迎えているのであまりカーミラには子ども扱いをされてほしくはない気持ちのほうが大きい。

「で、その腐乱した胎盤がどうしたの?」
「そうそう。胎盤の話ね。ケルクって胎盤はどこまでわかるの?」
「えっと……女性が妊娠した時にできる器官……かな?」
「ん~、それじゃあ情報としては不足点が多い気がするけれど、だいたいそうね。妊娠時の子宮内にできる、母体と胎児の連絡器官とも呼ばれているところなの」

ケルクは妊娠に関しての知識は門外漢(もんがいかん)だ。やはりこういうのは女性の方が詳しいものなのか、とケルクは感じた。

「それで、胎盤っていうのは妊娠して出来上がるものじゃなくて、次第に成長していくのね。だいたいそうね……妊娠十六週ごろに胎盤が完成するはずだったわ」
「そんなに長いんだね」
「そうねえ。お姉ちゃんは妊娠経験したことがないから、長いかどうかはわからないけれどやっぱり長いのかしらね。
それでね。胎盤って寿命もあるのよ。妊娠四二周期目に入ると胎盤の機能も衰えてくるわけ」

ふいに感じたが、ケルクにとって今回の話は今までの話よりも、少しばかり面白みを感じる。
妊娠、という知識がないからか知らない知識を知るのはケルクにとって楽しい事なのだ。

「寿命が近づいてきた胎盤は、簡単に言えば問題点が増えていって後々胎児に影響をもたらしてしまう可能性があるとも言われているの。これは胎盤の機能が低下してしまうからなのね」
「胎盤の機能って?」

カーミラは物珍しい動物を見る顔をした。

「ケルクから質問なんて珍しい……というか初めてね。
そうね。胎盤の機能は、お姉ちゃんもハッキリと把握はしていないけれど、胎盤はへその緒とくっついていて母体側から酸素や水分、栄養分を胎盤内にできてる絨毛って場所で受け渡し場所になっているのよ。受け渡すってことは、もちろん胎児側からも老廃物を送ることがあって、それは母体が処理する仕組みになっているのよ」
「ってことは、その機能が低下したら胎児に酸素や栄養を送れなくなったりするわけだね」
「だいたいそうね。で、胎盤は出産と同時に役目を終えて、剥がれ落ちてくるの。
これが「普通」の胎盤の機能やもろもろについての話ね」

カーミラは、机に用意してあるコップを一口飲み、口の中を潤す。

「ケルクは出産まで、どのくらい時間が掛かるかわかる?」
「いや、知らない」
「早産(そうざん)や過(か)期産(きさん)とかでなければ十ヶ月と十日ね。妊娠四二周期目よりも少し出産予定日っていうのは早いのよ。だから、過期産って呼ばれてる妊娠四二周期目は、胎盤が衰えて出産には危険も伴ってくるようになってくるらしいわ」

時間の長さをやはりと言っていいか、ケルクは感じずにはいられなかっただろう。出産には、莫大(ばくだい)な時間が伴うのだ。

「ここで、腐乱した胎盤について少し方向を変えるわ。腐乱していた胎盤の母体、つまりは母親が出産したのは何か月かかったと思う?」
「難しい問題だね。腐乱していたっていうから……どうなんだろう。遅いのか早いのか……」
「わからないわよね。ピンポイントで当てたら私もビックリよ。
その母体が出産までにかかった月日は、三年と約二ヶ月なのよ」

「そんなのあり得るの?」
「普通じゃないわね。唯、その話が本当だとして私が問題視しているのは、その子供がちゃんと生まれて、胎盤機能も出産後まで正常に働いていたことだと思うの」
「三年も経っているのに胎盤は正常に働いて、出産もできたのに、出産後には胎盤が腐乱した?」
「私が聞いた時は、胎盤が腐乱していたことだけしか聞かなかったんだけれど、恐らくだけど母親は死んでるか、同じく腐乱しているかのどちらなのかなって私は考えてる」
「なるほどね。まあ、でも姉ちゃんが持ってきた話にしては、一番面白みがあったよ」

少しばかり長かった話だが、出産の知識はケルクにとって知れてよかったと感じるものがあった。

「ちょっと、何この話を完結させようとしてるのよ」
「あれ? まだ続きがあるの?」
「胎盤が腐乱していて、三年と約二ヶ月で出産した。この話には、もうひとつ面白いところがあるのよ」

そう笑みを浮かべながら、カーミラは人差し指を立てながら言う。

「その産み落とされた子供が、この辺境地の周辺に逃げ込んだって話なのよ」

ケルクは同じ本を読むことが多い。それが彼の趣味の一つでもあるからだ。
一つの書物にしか没頭できないわけではないが、他に様々な物語に触れることを彼は好んではいない。何年かに一回物語を変えてゆくのが彼の趣向だった。
ケルクは羽毛の寝台に座り込み、書物を開く。
題名は「憤怒の重瞳(ちょうどう)」。四年近く、ケルクはその物語を寡黙(かもく)に見つめることを心掛けていた。
ケルク自身は、この物語が好きでいた。双子の少女たちの物語が。

重瞳というのは、一つの眼球に複数の瞳孔が存在していることを指しており、「憤怒の重瞳」にも勿論同じ存在が登場する。
双子として生まれた少女の二人ともが重瞳だ。しかしながら、二人の片目側だけが重瞳であり、一人は右目、一人は左目が重瞳だった。

彼女らは裕福な家庭に生まれ、やがてお互いが十五の歳を迎えると母と父を火事で失う。彼女らが引き取られた場所は、両親の祖父母のところだった。
悲劇はそこで始まる。祖父母たちは、少女たちを愛していた。しかし、同時に母親と父親も愛していたのだ。精神的に疲弊した祖父の方が、最初に彼女らをいたぶり始める。

最初は髪の毛を執拗に触るだけだったのが、徐々に彼女らの肉体へと魔の手は伸びていく。祖母は気が付いていたが、止められないでいた。彼女もまたどこか壊れていたのだ。

右目が重瞳の少女「フィア」がまず凌辱(りょうじょく)の犠牲となる。彼女の右目が犯されたのだ。母親に綺麗な群青色と言われた、その瞳を祖父に犯された。
左目が重瞳の少女「リア」は、傍観者となった。正確に言えば、そうさせられたのだ。凌辱されている「フィア」の隣で祖母に拘束されていた「リア」は、涙を枯らした。

そのうち、「フィア」は精神的に壊れ、捨てられた。そのとき、「リア」の感情はどこか深く伽藍の底へと自らを捨てる感覚を身に味わうことになってしまう。
ともに歩み、何があろうとも一緒に居ようね、と約束を交わしたもう一つの忘れ形見を人形のように扱った祖父母たちを「リア」は許すことができなかった。

次は自分が殺されるのかと思えば、祖父が「リア」の拘束具を解いた。何事かと思えば、一緒にお茶でもしよう、と言ってきた。これは殺すチャンスができた、と「リア」は感情を殺して首を縦に振った。

数分経てば、祖父の心臓部は「リア」が握りしめている刃こぼれした鍬(くわ)により抉られていた。何度も執拗に刺した。その行為が祖母に見つかるまでそう時間は掛からなかった。
祖母には「化け物」と呼ばれた。リアの山吹色の重瞳が憤怒の色を灯し、やがて自らの血がドロドロと瞳から流れ落ちる。涙は枯れたはずだった。

祖母も殺すのに手間はかからなかった。その後、家を燃やし、リアは孤独に立ち去る。煌めく炎が祝福を意味することを祈りながら。

………………頁をめくり終えると、ケルクはため息をついていた。
自分はこのような物語が好きなのだが、好きでいていいのかと――。

気が付けば朝陽が、窓から差し込んでいた。
いつの間にか眠っていたケルクは、すぐにおき、顔を洗って支度を済ませる。

「姉さんは、今日も都市に?」
「ええ。そうよ。今日も少し資材を買いにね。私も、ヘクトさんみたいに立派な魔術師だったらいいのだけれど」
「姉さんには少し向いてないかもね」

カーミラが笑う。

「ケルクは魔術師よりも、やっぱり狩猟や環境調査が向てるわね」
「そうかな。長くこの仕事もやってるけど、自身なんてないや」
「誇りを持ちなさい。仕事があるだけでも幸せなのよ。さっ、行きましょうか」

ケルクとカーミラは同じ時間に朝は出かける。それは、仕事の時間だった。
カーミラと別れ、ケルクは独り今日の担当場所をめぐる。
辺境地とされているアヘイロン州には、ケルクたちが住むヘロアドしか町がなく、他には森や洞窟、湖などの自然が盛んである。だからこそ、ケルクは環境調査の任を他州の王都に任され、報告する仕事と共に魔獣などの変種を狩る仕事についている。
だが、環境調査の仕事は捗るものの魔獣などの変種が現れることは滅多にない。王都中枢に所属する十二聖神柱(ヘキュトス)兵団により、魔獣種などが圧制されているためもあるだろう。

ケルトの仕事は、主に森に変化がないか、鉱山に変化はないか、動物の死骸がないか、変化を記述する仕事だ。
昼時の鐘がなった。丁度、湖に来ていたケルトは木影に入り、昼食をとることにした。今日は、兎の干し肉とパン二つだった。

流れる水を見つめながら、昼食を取っていると、ふいに視線が反対側の木々にいった。何かをケルクは見た気がしたのだ。

パンを食しながら、ずっと何かがいた気がする場所を見つめていたが、何も出てこなかったので次の調査場所へとケルクは移動した。
ある程度、調査を終えて帰り支度をするケルトはまた視線を感じていた。すると、後ろに小柄な少女が立っていた。

短髪の少女は、不思議そうに「何をしているの? おにいちゃん」と問いかけてくる。

「君こそ、こんなところで何をしているんだい?」
「ん~、わかんない!」
「迷子かい?」
「ん~、わかんない!」
「……とは言っても、ヘロアドしかこの州には町がないし、どこかの娘さんとは思うけれど。君、僕と一緒に来るかい? 僕も丁度今から帰るところなんだ。君をこんな寂しい場所で一人にしておくのは危険だから、よかったら」

少女は、困ったように目を瞑り唸っていた。
ケルクは、少女の服が汚れていることに気がつくと共に、靴を履いていない事にも気が付いた。

「君、靴も履いてないじゃないか。どこから来たのかは覚えているかい?」
「……ごめんなさい。思い出せないの」

今度はケルクが唸る番だった。困ったことに、少女の記憶ははっきりとしていない。記憶喪失と断定するのは早計だ。町に帰って、ケルクは姉に相談しようと決めた。

「ほら、僕の背中に乗って? その足でまた歩くと酷いことになる」

少女は少し戸惑いながらも、ケルクの肩に手を乗せ、背負ってもらった。
少女の足はやけに冷たく、どこか儚げさを彼の心に蟠りを残した。

日が暮れる前に帰ってこれたケルクと少女は、家に入って姉であるカーミラに相談を持ち掛けた。

「……つまり、その子が調査終わりにヒョコッと現れて、可愛すぎたものだから連れて帰ったってことでいいのよね……?」
「アンタ、話聞いてたか?」

ケルクは、この人が本当に自分の姉なのか疑う余地を残していた。

「アンタとは酷いわね!」
「つまり……この子、記憶がハッキリしてないから明日ヘクト先生に診せに行ってから、引き取るかどうか考えたいんだ。もし僕たちが引き取らないにしても、引き取り先は重要だと思う」

カーミラは、考えながらケルクの隣に鎮座する少女を見ていた。
服はボロボロで、足も泥だらけになっている。カーミラは、とりあえずはお風呂で体を清めたほうがいいのでは、と判断した。

「あなたのお名前はなんて言うのかわかるかな?」

カーミラがゆっくりと少女の横に来ると、少女の目線に合わせて優しく声を掛けた。

「……思い出せない、の。ごめんなさい」
「謝らなくてもいいのよ? 名前がないとあなたを呼ぶことができないから、思い出すまでの名前を私がつけていいかしら?」
「名前……?」
「ええ。名前よ。名前は、呼ぶために、呼ばれるためにあるのよ。だからね、お姉さんに名前を付けさせてほしいの」

逡巡しながらも少女は頷いた。「いい、よ」と。

「……そうね。あなたは――――「リア」。リア、でどうかしら」
「リ、ア……?」

皮肉にもそれは、カーミラもケルクも愛した物語上の、憤怒を抱えた少女の名前だった。
風呂上がり、リアが眠りにつくとケルクはカーミラと少し話をしていた。

「なんでまたあの子に、リアなんて……」
「好きだからよ。あの物語がね……。でもね、変な意味でつけたわけじゃないのよ。ただ……子供の名前を付けるときって自分の好きな観点に意識が行っちゃうのよね」

苦笑いを浮かべながら、カーミラは少し後悔していた。なんであんな名前を付けてしまったのか、自問自答しても今は答えが出てこない。

「つけてしまったものは仕方ない。あの子が、自分の良い名前を思い出すまでは、リアなのよ。だから、ケルクもそう呼んであげてね」
「……ああ」

ケルクは、寝ている少女の横顔を見ていた。「リア」と名付けられた時の少女の笑顔が忘れられないでいる。

朝陽が登れば、ケルクとカーミラは起きる。リアはまだ眠っていた。
カーミラは起こそうと、リアの身体を少しゆすると少し声を出して、リアの目蓋に力が入る。次第に、リアの両目が開き、特徴的な朱色の瞳が優しくカーミラを見た。

「リアちゃん、朝だけど起きれる?」
「ん~……おかあ、さん」

どうやらカーミラを母親と勘違いをしているようだ。
カーミラは、少し困ったようにはにかみ「カーミラお姉さんでしょ!」とリアのお腹をくすぐる。
朝の団欒(だんらん)が始まり、ケルクも楽しかった。
朝の支度を終え、今日は仕事が始まる前にケルクたちは寄らなければいけないところがある。

「リアちゃん。準備は済んだ?」
「うん!」

カーミラの幼少期の服を残しておいて正解だったのか、リアにはそれを着させた。
さすがに、靴は後で買うことにしたので今日もケルクがリアを背負っていく。

「今からどこへいくの?」
「ヘクト先生って呼ばれてる、この町で医師も務めている方のところよ。安心して、いい人だから」

少しだけ怖がった表情をしたリアに向けて、安心の言葉をカーミラは伝えた。
木製扉を開け、外に出ると気持ちのいい陽射しが身体にしみていく感覚を、ケルクは感じた。
リアは驚いていた。陽射しの気持ちよさからなのか、リアは喜んでいた。すごい、すごい、と。
ヘクト、という人物は教会にいる。ヘクトは魔術師であり、今は子供に読み書きや算術なども教える立場になっている。それから魔術の応用を用いる医療術で、医師としてもこの町で活躍しているのだ。
昔は、老いぼれた爺さんがちゃんとできるのか、と町の人から辛辣(しんらつ)な声もあったがケルクたちにとってはいて欲しい存在となった。

教会につくと、ヘクトは簡素な服装でひざまずき祈りを捧げていた。

「おや。珍しい客人じゃないか。どうしたのかな。カーミラ君にケルク君」
「おはようございます、先生。少し診てもらいたい子がいまして、お時間は大丈夫ですか」

リアは、ケルクの背中にぎゅっと隠れていた。
ヘクトと目が合ったリアは、ギョッとした顔でケルクの肩を強く握り、再度隠れる。

「お嬢ちゃんかい。お客人は。
今日は、教え子たちも来ない。今は診てあげられるよ」

奥の部屋に行こうか、とヘクトはついてくるように促した。
礼拝堂を進み、ケルクたちは用意されている診察室に行く。
リアは、礼拝堂に設けられた銅像に見惚れていた。
ケルクは、そんな少女に少しだけ話す。

「これは聖母キュメル様だよ。この世界を癒しで浄化してくださる神様なんだ」
「とてもきれいです……」
「また後でお祈りしようか。まずは、リアちゃんの身体に怪我がないか診てもらわないとね」

リアは頷いた。
診察室も簡素なもので、ヘロアドにはあまり良い施設を作れるような資金が王都からは中々寄付されない。寄付されるときもあるのだが、少額なのだ。

「リアお嬢ちゃんだったかな。そこの寝台に横になってくれるかな?」

リアはカーミラをチラッと見ると、カーミラは笑顔で大丈夫よ、と伝えた。
ケルクがリアを床に降ろす。リアは足にひんやりとする冷たさを感じた。
ヘクトは、横になったリアの頭上に手をかざした。

「リアお嬢ちゃん。少し眩しくなると思うから、目を瞑っておいてくれるかな?」

頷いたリアは、目に力を入れて強く閉じる。
ヘクトの手の周りに、展開されるのは魔術式だった。媒介道具無しで魔術式を使えるというのは、ある程度の力量がある証とされているが、残念なことにケルクはこの手の知識は門外漢だ。

頭上から徐々に足先まで光が伝わると一旦、ヘクトは手をのける。

「脳に異常もなければ、怪我などもないようだね。ただ体温が低い。靴なども買ってあげるのは当然だが、帰ってから身体を温めることをおすすめしたい。靴の代金はこちらで出そう」
「そんな……! 無料で診察してもらっている身としては……」

カーミラは少し戸惑った。

「いいんだ。私は、この町にお世話になっている身だ。それに君たちにも、両親はいないだろう。この子と同じだ。親代わり……とは言えないが、少しでも私が協力できるところは協力をさせておくれ。また、話に付き合ってくれるだけで老いぼれは嬉しいんだ」

そういうとヘクトは、机の中から金貨三枚、銀貨二枚をカーミラに渡した。
靴の代金には少し多い金額だった。

「少し多めに渡しておこう。暖かいご飯を買ってあげなさい」

手のひらに乗った金貨と銀貨を見つめ、カーミラは迷いながらも「……ありがとうございます」とお礼を言った。

「それから、ケルク君。君は少し残ってくれるかな。話があるんだ」
「僕に、ですか」

目を瞑っていたリアを起こし、礼拝堂へとカーミラとリアは戻った。二人でお祈りをしておくようだ。

「話と言うのは、彼女……リアお嬢ちゃんのことだ。カーミラ君は君よりも歳は上だが、心がまだ成熟していない。だから、君の方にこの話をしようと思ってね」
「僕も成熟はしていないと思うのですが……」
「ああ。成熟はしていないだろう。というよりも、精神の成熟というのはどこからなのかハッキリとはしていないが、カーミラ君よりケルク君のほうがまだ話をしていても私も安心なんだ。男の子だから……という決めつけはよしておこう」

すまない、という顔をヘクトはケルクに向ける。

「話と言うのは、王都に最近広まってる噂のことなんだが、君はそう言った類の話はよくカーミラ君から?」
「ええ……随分前から聞かされています」
「なら―――――腐った胎盤の話は、もう聞いたかい?」

その話題をすっかり忘れていたケルクは、少し間をおいて頷いた。ヘクトからその手をの話を聞くこと自体珍しいものだった。

「その話が、最近やけに大きくなっている。というのも、腐った胎盤から酸素や栄養を受け取り、生まれた子供が王都から逃げ出したからだ」

その話もカーミラからヘクトは聞いていたが、単なる噂話程度に捉えていた。

「これは私の情報なのだが、これは噂でもなく本当なんだ。腐った胎盤から産み落とされた子供も存在するし、また母体の死体も確認が取れている。母体は吸血鬼に吸われたように干からびていたそうだ。それに加え、生まれたのは最近。そして、年齢は可笑しなことに一〇歳未満だそうだ」
「姉さんからは、そこまでは聞いていないですが……姉さんは母体は死んでいるんじゃないかって言ってました」
「カーミラ君の勘はよく当たるものだね」

ヘクトは苦笑いを浮かべ、深く椅子に座りなおした。

「その母体はいつから妊娠しているか知っているかい?」
「……はい。確か三年前ぐらいでしたか」
「そう、三年と正確に言えば二ヶ月。そして、王都が調査した結果、母体の子宮は壊れており、魔獣の変種による痕跡が膣内に発見されたそうだ」
「それはつまり……?」

一拍間をあけ、ヘクトは、

「その母体の子供は、人間と魔獣の子供なんだ」

リアの靴を買い終え、ケルトたちは一旦、家に帰宅した。
今日は、カーミラが休みを取り、リアの面倒を見ることを決めたのだ。さすがに一人でいるのも寂しいだろうと、カーミラから帰り道、言い出した。

「じゃあ、リアちゃん。ケルクに行ってらっしゃい、言おうね~」
「い、いってらっしゃい!」

恥ずかしそうに言うリアが可愛らしく、ケルクは笑みがこぼれた。

「行ってくるよ」

扉を開け、今日も環境調査の場所へといく。
歩きながら、ケルクはヘクトとの会話を反芻(はんすう)していた。

「人間と魔獣の……ッ。先生は、リアちゃんのことを?」
「……ああ。さっきは、何も異常はないと伝えたが、干渉魔術によって彼女の身体に、悪性腫瘍を見つけた」
「悪性……?」
「つまり、癌だ。ただ――――リアお嬢ちゃんの腫瘍は尋常じゃない。まず、腫瘍というものは、普通とは異なっている組織の塊のことを指すんだ。異常な細胞が増殖することによって腫瘍は発生するのだが、腫瘍にも二種類ある。そのうちの一つが癌と呼ばれる「悪性腫瘍」なんだよ。
特に酷いのは……脳にも腫瘍が転移して脳腫瘍を起こしている。にもかかわらず、彼女は歩けているし、笑顔も作れる。普通じゃない。既に死んでも可笑しくはないんだよ」

リアの笑顔がフラッシュバックしていく。

「もしかしたら、リアお嬢ちゃんは」
「やめてください。まだ証拠はないんです」

ケルクは聞きたくなかった。

「証拠が出てきてからじゃあ、遅いことだってあるんだ。それに、今言った通り体の構造が「人」ではないことが証拠にもなる。癌がそうだ。リアお嬢ちゃんが魔獣のように人を今殺さなくとも、いつかは……いや、すまない。酷な話だな」
「どうしろっていうんですか……」
「あの子を、引き取らせてほしい。今すぐとは言わない。少し、医療術を駆使しながら見ていきたいんだ」
「治せるんですか……?」
「わからない。だが、やれることはやりたいんだ。老いぼれでもできることは、まだ残っているからね」

そう言って、ヘクトとの話は終了した。ケルクは礼拝堂に戻ると、聖母様に祈るリアの姿を見た。鬱屈するこの感情を、どう表せばいいのか分からず、ケルクは笑顔でリアのそばに行ってあげた。
悲劇なんかより喜劇がいい、そうケルクは祈り、教会を三人で出た。
昼時の鐘が今日もなる。鬱蒼とした気持ちは、陽射しとは正反対だった。
昼食を食べようとしたケルクは、今日も木影に入る。今日は湖ではなく、森林の中だ。
昼食中にケルクは、やけに臭い匂いを感じていた。魔獣だろうか、とも思ったがそのような匂いではない。

昼食を鞄にしまい、匂いをゆっくりと辿った。
近づくにつれ、その匂いは肥大し、鼻腔(びこう)に強烈な嫌悪感をも感じさせる。
ケルクが見つけたのは、下半身を喰いちぎられていた動物の姿だった。瞳には生気がなく、だらりとしており、喰いちぎられている――――というよりも綺麗に切断された断面図からは腸(はらわた)が伸びていた。
死体の匂いにケルクは辿り着いたのだ。生臭く、いつからそこにあるかもわからない動物の死体は唯々、不気味さを異様に醸し出していた。

ケルクは死体を探ると、近くに小さな靴があることに気が付いた。

『君、靴も履いてないじゃないか』

ケルクが初めてリアとあった日に自分がそう言ったのを思い出した。もしかしたら、靴は元から履いていたが、脱いだか、もしくは脱げた靴がこの靴ではないかと。

『リアお嬢ちゃんが魔獣のように人を今殺さなくとも、いつかは……』

ヘクトが言ったその言葉をまた反芻する思いになっていた。
今すぐ戻れと脳裏の自分が警告しているかのように感じたケルクは、気が付くと駆け出していた。
今は、警鐘する鼓動に逆らう事も出来ず、靴を握りしめてヘロアドへと戻っていった。

夕陽が欠け落ちてゆく。影が伸び、夜を迎えようと小躍りしているようにも見えた。
ケルクがヘロアドにつく頃には、もう夕暮れの終わりが近づいていた。
買い物で賑わっていたり、団欒が聞こえたりなど町の住人たちは無事だという事がわかる。
不安を抱いてしまった自分の勘違いで終わることをケルクは祈っていた。

家に帰ると静寂が出迎えた。
しばらく待っていても誰の声もしない。どこかに出かけているのかとも思ったが、孤独に耐え切れずにケルクは手あたり次第、呼びかけながら静寂を振り切った。
すると、居間にカーミラが長机に寝そべっていた。
ホッと安堵の息が漏れた。

「姉さん。起き――――」

カーミラを起こそうとしたケルクの手が、彼女の肩に触れた瞬間だった。重力に抵抗せず、カーミラの身体はだらりと椅子から床へと堕落した。
床に広がった赤黒い血が鮮明に現状を語り尽くす。カーミラもまた、下半身を亡くし臓腑(ぞうふ)を伸ばした亡骸に変貌していたのだ。

声も出なかった。泣きたい気持ちより、どうしていいかわからない感情が肥大した。
リアがいないことにはすぐ気が付いた。
ヘクトにカーミラを見せようと、彼女の身体を抱えたケルクは、その冷たさに涙を流した。どうしようもなく、彼女が死んでいる温度が体に浸透する。

家を出たときだった。違和感が肌に張り付く感覚が伝播(でんぱ)したのだ。
閑散(かんさん)とした空気が漂っていた。ヘロアドについた時の賑わいはなく、団欒もない。魔獣がいないか、接近していないか確認するように設置している塔の灯りも消え、静寂した暗闇だけがケルクを襲う。

「だ、誰もいないのか!」

隣の家の煙突からは、濛々(もうもう)と広がる煙が見える。微々たる灯りだけが見えた。
扉を叩き、誰かが出てきてくれることを願ったが、そんな気配は一切見られない。
焦るケルクは、扉の取ってを握る。ゆっくり力をこめると、あっさりと扉は無防備に開いた

家の中に入るや否や、小さな女の子の死体が瞳に入ってくる。カーミラと同じように、下半身を亡くし臓腑をさらけ出した亡骸だった。
家の中は、家族の死体が少女含めて四つ転がっていた。どれも下半身はない。
ケルクは嫌な汗をかきながら、この家を後にした。

早くヘクトの元に行かなければいけない。カーミラを抱える手が震えてしょうがなく、恐怖で吐き気を感じた。
教会につき、中に入ってみれば会衆席などが壊されていたり、辺りに散乱している。
中心に建てられている聖母キュメルの銅像は半壊し、人の死体とは対極的に下半身だけを残し、上半身は欠片となって周辺に投げ出されていた。

奥から硝子の割れる音が聞こえた。
奥に向かうと、そこにはヘクトとリアがいた。リアがこちらに気がつく。振り向いた彼女の瞳は左目が伽藍で、右目が重瞳と化していた。
偶然か、リアはケルクの好きな物語に出てくる少女と同じ瞳と化していたのだ。
願わなかったその悲劇が、目の前で起こっている。

「ケルク君ッ!? 今すぐ逃げるんだ!」

壁際に座り込んでいる白髪を乱していたヘクトは、血相を変えてケルクにそう助言した。

「おにい、ちゃ【ん】」

苦しそうにリアは涙を流していた。しかし、はっきりとリアの両手や口元、または服にはおびただしい返り血などが付着していた。
ヘクトはリアに対抗するために魔術式を展開し、防壁を空間に拡張していた。だが、その防壁には亀裂が入っており、今にも壊れてしまいそうなほどに頼りない。

「【たす】ケテ――――ヲニイヂゃん」

瞬間、リアの中から何かが蠢く気配を感じた。服の中から現れたのは、鈍色の触手だった。先端には鎌のような刃物がついている。この凶器が下半身を抉った得物だと判断できた。
リアは頭を抑えた。制御できないのか、触手が独りでに当たりの壁を破壊していく。切れ味は優れていた。壁が溶ける、という表現は適切ではないかもしれないが抵抗もなく、触手は壁をすんなり壊していく。

哄笑(こうしょう)なのか、慟哭(どうこく)なのか。リアの苦痛の声が、教会に響く。
標的を壁から切り替え、ヘクトへと触手の切っ先は向いた。剣戟(けんげき)のような反響を奏でながら、触手がまたひとり死者を作ろうと踊る。
展開していた防壁は容易く割れた。

触手はその鋭利を深くヘクトの腰に方向を瞬時に変え、骨盤にかけて下半身を綺麗に抉る。その時の骨の千切れる音がやけに耳に残った。
ヘクトは弱まっていた。だからこそ、防衛にしか魔術が行使できず、反撃がができなかったのだろう。
上半身を床に残し、ヘクトの生命はそこで途絶えた。

リアがこちらに身体を向ける。悲壮に満ちた少女の顔は、家で過ごした少ない時間の中で確認したリアに間違いない事を、ケルクは気がついていた。
助けて、というリアの真意はわかっていない。ケルクはリア自身が何かに逆らうようにも見えたのだ。だからこそ、独りでは抑えきれないものを前にして「助けて」と救いを求めたのではないか。

リアが少し近づいてくるとケルクは、カーミラをゆっくりと壁際に寄せて、次第に足をリアの方へと踏み出していた。
触手が頬を掠める。薄くできた傷口から血が垂れた。だが、ケルクは動じない。
リアと間近に迫るとケルクは強く少女であるリアの身体を抱きしめた。強く、家族を愛するように。
触手が一旦終息を迎えた。それは本当に一瞬の出来事で、だからこそケルクはこの時間を大切な言葉に変える。

「……リア。独りで、戦ってきたんだな」

力強く言葉を刻む。呼び捨てにしたのがその表れでもあった。

「記憶は思い出したかい?」

彼女は俯きながらもゆっくり首を横に振り、返答してくれた。

「じゃあ、君はまだリアだ。姉さんがつけてくれた名前をこれからも……記憶が戻って名前があったことを思い出したとしても――――僕たちにとってリアなのは変わらないんだ」

後ろの壁際に寄せたカーミラをケルクはゆっくり見つめる。彼女もまた少しの時間であったとしてもリアを愛した人物だった。

「名前は呼ばれるためにあるんだ」

カーミラが言っていた言葉を思い出していた。

「――――約束をしてほしい。確かに君は、僕たちにとってはリアだけれど、もしかしたら本当の名前があるかもしれない。それを僕たちにも、いつか聞かせて欲しいな……」

慟哭する少女はケルクの名を何度も呼んでいた。ケルクおにいちゃん、と。

「ああ、そうだよ。僕はケルクだ。君を姉さんと一緒に愛したケルクだよ」

ケルクも同じく涙を流していた。その涙はこれから彼女の成長を眺められないことになのか、悲惨なこの現実に対してなのかわからなかった。

「リア。生きてくれ。愛してる――――」

胎動した死を連想させる鎌がケルクの下半身を食いつぶした。

荒れる砂漠の中、青年は仕事を終え都市へと帰ろうとしていた。
いつもながらの荒れようにうんざりする。
少し進んだところで座り込んでいる少女を見かけた。
こんなところで小さな少女を見かけたのは初めてだと青年は感じていた。

「嬢ちゃん。こんなところで何してんだ。一旦、都市まで送って行ってやるからついてきな。脱水症状起こしたら大変だぞ。
嬢ちゃん名前は?」

そう聞かれた少女は、

「……リア」

か細く、底知れぬ伽藍(がらん)洞(どう)の眼(まなこ)を青年に向けるのだった。
少女はまだ名前を探している――――。

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