【ホラー/怖い話】緊急停止

急ブレーキをかけて、目を瞑った。

恐れていた「ドンッ」という衝撃音は無く、うっすらと目を開ける。今、線路に男性が立っていなかっただろうか。灰色のスーツに紺のネクタイ、黒い鞄を持って、どちらかといえば細身の男性。やつれた表情がだんだんと近づき、ぶつかると思って急停車を掛けたのに、誰もいない。事故が起きた様子もない。

「急停車、大変失礼致しました。電車が動きます。お立ちのお客様は、つり革や手すりにおつかまりください」

なんだったのだろう。ただ、それが普通ではなかったことはわかる。確かに居たのだ。あれが本物だったらと思うと、ぞっとしてたまらない。目の前の景色が真っ赤に染まって、だなんて。想像するだけで身震いする。

電車を使っての飛び降り自殺ほど、勘弁して欲しいものはない。

まず利用客に迷惑を掛ける。利用客というのも、この電車にすでに乗っている乗客、ホームで待っている客、さらにその先の駅で待っている客、この路線を使おうとしている客。ダイヤの乱れひとつで、影響を数万人規模に与えることが考えられる。

次に、他の路線を含めた駅員にも。振替輸送、なんてものがある便利な時代だ。本来この路線で輸送できた乗客を、他の路線で代わりに目的地まで行ってもらう。その振替輸送サービスのために、相当な苦労が裏ではあるのだ。いつになったら動くんだと怒鳴りつける客の、相手をしている暇などないのである。遅延証明書に日付と時刻を延々とスタンプする、突然の仕事の大変さと言ったら。

それから洗車もしなければいけない。電車はメンテナンスの時間すらも、かなり正確に決められている。乱すのはダイヤだけではないことを知って欲しい。

一番迷惑を掛けられてしまうのが、運転手である我々の方だ。目の前で人を轢く、急ブレーキを掛けようとしても、すぐ電車が止まるわけじゃない。何もできぬまま、目の前で人の肉片が散る。おぞましいどころか、トラウマレベルだ。降りてその死体処理をするのもまた、駅員と運転手である。引いて吹っ飛んでくれたらいいものの、下敷きになっていたら最悪だ。あの死臭は、鼻にこびりついて離れない。

自殺なのだから、それなりに理由はあるんだろう。なんというか、電車使って、他人に迷惑を掛けるような最期でお前はいいのかと問いたい。そりゃあ、学校や職場で何か嫌なことがあって、ふと目の前を見たら電車が走ってきて、ああ此処に身を投げればと考えてしまうのだろう。自分も人の死に関して、説教できるほどの器を持った人間じゃない。ただ、電車を動かしている身として言わせて欲しい。線路に飛び込んで電車に轢いてもらう、その考えだけは止して欲しい。こちらの気が病む。

何も無いのに急ブレーキを掛けて、緊急停車してだなんて。上司に怒られないはずがなかった。ホームの利用客が何人も見ているのだ。もし利用客が見ていたら、緊急停止ボタンが押されたことだろうと、ごもっともな説教であった。

それでも俺は見たのだ。スーツ姿のあの男性が立つ姿を。電車が近づいてくるその影に、そっと身をまかせるようなやつれた表情。細身の体が、悲鳴を上げていた。もし止まらずに進んでいたら、どうなっていたんだろう。あれは一体なんだったのだろう。

次の日も、同じ駅に入る頃、小さくその影が見えた。スーツ姿でやつれた顔をして、紺のネクタイを締めるひょろりとした男性。俺は念のために、かなり最初から減速をしていた。その影が大きくなる。目の前で、電車が止まる。そっと、目を閉じる。大丈夫、ただの、誤認だ。

「電車が動きます。まもなく——」

アナウンスを掛ける。ゆっくり、停車位置に電車を止める。

それにしても、あの人は誰なのだろうか。人身事故が多く起きる、言わば自殺の名所と呼ばれる駅ではある。過去に此処で自殺した男性なのだろうか。まだ死に足りないとでも言うのだろうか。

気になって過去の死亡事故を探してみたが、当然のようにこの駅の同じような時間帯で、線路に身を投げたサラリーマンなど多く居た。誰なのかはさっぱりわからない。その人の望みは、一体何なのだろう。どうして線路の上に、俺の運転する電車の前に現れるんだろう。

体調が悪くなってくる。霊的な何かなのだろうか。そういうものに疎い俺は、体調不良と言って二日も休んでしまった。地縛霊だの、なんだの。そんな感じの、得体の知れない何か。きっとそうだ。止まらなくても大したことはないのだ。生身の人間を轢くことがなければ、事故にはならない。仮にあの男が幽霊やそれに近い類の何かならば、轢いたところで、となってしまう。幽霊を轢きました、だからなんだって。酒の場の、ちょっとした笑い話としてすら使えない。そういう話は夜中にやってくれないだろうか。わざわざ朝から考えることではない。あまりにも馬鹿らしいと言えた。

なんとか体調を整えた俺は、また電車に乗る。発車時刻、到着時刻、全て予定通りにこなしていく。いつも決めてあるポイントで、徐々に減速してホームのドア位置と電車のドアが、ぴったりと合うように停車させる。さて、そろそろ例の駅である。ふとよく見ると、いつもの影は見当たらない。さてはあの幽霊、そろそろ懲りたのだろうか。それならいつも通りに電車を止めるだけだ。減速を続けゆっくりと……。

ふっと目の前に人影が落ちてくる。何度も見た、グレーのスーツ姿。紺のネクタイを締めた、細い姿。ホームの乗客がざわつくのが、横目で確認できた。やつれた顔で、この運転席を見上げる男。急ブレーキを掛ける。減速しているとはいえ、それなりのスピードの出ていた車体はすぐには止まれない。嫌な汗が手に滲んできた。ほんの一瞬の出来事のはずなのに、どうしてこんなにも、時間の経過がゆっくりと感じられるの。事故の感覚は、どうしてかスローモーションのように体感できるとよく言われる。転落するときや、ぶつかるとき。衝撃が加わるまでの時間は、長く長く感じられる。止まれない、無理だ。体がそう察知したとき、俺はぎゅっと目を瞑るしかなかった。

ずっと待っていたのかもしれない。死にたいという想いが強すぎて、いつ死のうかと、何度も躊躇したのかもしれない。だから何度も、目の前に現れたのかもしれない。——ああ、ごめんだ。何度もご対面した幽霊が、本物の幽霊になるなんて。それとご対面して、後片付けをしなきゃならない。全くもってツイていない。ツイてはいないが、憑いているか。くだらない親父ギャグって、なぜかこういうときに限ってぽんと浮かんでくるものだ。

目を開けると、鈍い音の先に赤い景色が広がっていた。

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